ひとりになりたいと思ってしまった夜
ある日の夜。
玄関を開けた瞬間、床に落ちている服が見えた。
拾えばいい。それだけのことだった。だけど私は、その服を見たまま、しばらく靴を脱げなかった。バッグを置いて、かがんで、拾って、洗濯機に入れる。その先にある、洗って、干して、取り込んで、しまう時間までが見えたのだ。
正直に言って、今日は、もう何もしたくなかった。
今日の私は単に疲れているだけではなく、日々の疲れが蓄積して、あと少しつつけば爆発するような状態だったから。
最近の私は、かっこいい。
仕事は楽しいし、寝なくても全然疲れない。人の悩みを聞き、言葉を探し、判断をして、できるだけ明るい声で答える。私の仕事は感謝されることが多いし、それには当然やりがいが生まれる。自分自身が癒やされる営みでもあるのだ。
だけどこの日は、そんな「かっこいい」私が、床に落ちた一枚の服を拾えずにいた。
「ママ」
息子が走ってくる。
私はかがんで、その体を受け止めた。首に腕が回る。頬が触れる。かわいい、と思った。
だけどそれと同時に、「少しだけ一人にしてほしい」と、明確にうんざりしている自分がいた。
二つの気持ちが立ち上がったのは、ほとんど同時だった。
そして、そんな自分を心から嫌悪した。
片方が、もう片方を打ち消してくれればよかったのだ。
かわいいと思った瞬間に疲れが消えて、ただ「会いたかった」と抱きしめられたらよかった。
だけどその日は、そうはならなかった。
私は息子の背中に手を回しながら、まだ脱いでいない片方の靴のことを考えていた。
「子どもはかわいいでしょう」
そう言われたら、かわいいです、と答える。
嘘ではない。眠っている頬に触れたくなるし、昨日できなかったことができれば嬉しい。体調を崩せば心配で、いつもと違う呼吸をしていないか、夜中に何度も確かめる。
それなのに、同じ脳みそが、眠ってくれた瞬間にほっとする。
ようやく一人になれる。
ようやく何も答えなくてよくなる。
そんなふうに思ってしまう自分と、夜中に対峙する瞬間がある。
そしてそれは、大袈裟ではなく、私にとって一日の中で最もつらい時間だ。
寝顔を見ながら、起きているときにもっと優しくすればよかったと思う。
今日、何度「ちょっと待って」と言っただろう。
この子はあのとき、何を見せたくて私を呼んだのだろう。
私はそれを、ちゃんと見ただろうか。
明日は、と思う。
もっと優しくしよう。
もっと、すぐに反応しよう。
もっと、愛情を持って。
だけど、そう思いながら明日の予定を開くと、もうほとんど隙間がない。
「もっと優しくしよう」という決意を、私はその予定表のどこに入れればいいのか分からなくなる。
夫の話を、聞きたくない夜
また、ある日の夜。
夫に呼ばれる。
「少し待って」
パソコンの画面を見たまま答える。
あと一文だった。
何度も考えて、ようやく言葉になりかけているものがあった。
脳みその奥の奥、その隙間に挟まったほんの小さな紙切れの端をつかんで、破れないように、どうにか手繰り寄せて、つかみ取ろうとする感覚。
あと少し。
今、浮かびかけているこの言葉を。
そのとき、夫がもう一度、私を呼ぶ。
さっきより、少し強い声で。
「どうして聞いてくれないの」
内容を聞く前に、体が身構えた。
何かを決めてほしいのだろうか。
話を聞いてほしいのだろうか。
私がまだ気づいていない不満があるのだろうか。
私は、そういうことを察するのが得意だ。相手が何を欲しがっているかを考え、できるだけ傷つけない形で言葉を返す。その能力で仕事をしてきたし、それによって誰かを救えた場面もあったと思う。
だけど、「得意」なことは、「疲れない」ことではなかった。
勘弁してくれ、と思ってしまう。
ようやく仕事を終えて、好きな文章に向き合っているのに、それすら自由にさせてもらえないのか。まだ、私が何かを差し出さなければならないのか。
そう思うと、心がひんやりと冷えていく。
もちろん、そう思ってしまう自分の冷たさにも気づいている。
目の前の人は、私の言葉を欲しがっている。
家族だ。家族のことを、最優先に考えなければ。
それは分かる。分かるのに、その心に近づきたいと思えない時間がある。
そういうとき、私は自分が疲れている理由を説明する。
仕事がどういう状況で、何をいつまでに終えなければならなくて、今日はどれくらい人と話したのか。
そして、説明しながら気づく。
休みたいだけなのに、私はまた、相手に納得してもらうための仕事をしている、と。
自分の本音は、ひとつじゃない
仕事をしている自分が好きだ。
これは、家庭から逃げるためだけの言葉ではない。
考えたことが形になる。書いた文章が誰かに届く。自分が決めたことで、止まっていたものが動く。怖くても面白くて、もっとやりたくなる。
その時間を、途中で止められたくないと思う。
だけど、仕事が好きだと言い切るとき、私は少し警戒する。
子どもよりも?
家庭よりも?
自分が選んだことなのに?
実際に誰かに言われる前から、その問いは自分の中にある。
だから私は、誰かに何かを言われる前に、「お金のためでもある」と説明する。
生活を維持しなければならない。責任がある。私が止まれば困る人がいる、と。
それらしい理由。
一応、どれも本当だ。
実際、その「理由」を聞いた人は、それ以上何も言わない。突っ込みどころなんて、見つからない。
だけど実際には、「誰かのために仕方なく働いている私」だけを差し出せば、もう少し許されやすいと知っている。だからその理由を、あたかもこの話の中心であるかのように語るだけ。
ずるいよな。ずるい。
だって本当のところ、私は単純に、仕事がしたいのだ。
仕事を愛している。
仮にお金にならなくても、家庭には必要ないと言われても、それでもたぶん、この仕事はやめられない。
誰にも迷惑をかけていないと証明できなくても、母親として申し分のない一日を終えていなくても、まだ、仕事の続きを考えたい。
その欲を、どういう言い方なら持っていていいのだろう。
私は時々、考えてしまう。
そんな日々の積み重ねの先に、少しだけ家のことから離れた日があった。
その日は出張で、私は珍しくビジネスホテルに一泊することにした。
なんてことのない狭い部屋で、また、私はパソコンを開く。
洗濯の時間を考えず、食事を決めず、目の前の仕事を続けた。
驚くほど、息がしやすかった。
パソコンに向かい、思いついたことを、そのまま次の行に書けた。途中で何を考えていたのか忘れることもなく、ひとつのことを終えるまで、そこにいられた。
嬉しかった。
そして、嬉しかったことが怖かった。
私が欲しかったのは、この静けさなのだろうか。
一人の時間なのだろうか。
それとも、今の生活そのものを終わらせたいのだろうか。
「疲れているだけだよ」と言われたら、少し安心すると思う。
でも、「だけ」なのだろうか、とも思う。
休んで元気になった私は、また同じ場所へ戻りたいと思うのだろうか。
戻るために休まなければならないのだとしたら、休んでいるあいだに見つけた別の望みは、どこに置けばいいのだろう。
誰にも話せない気持ちを、深掘りする場所に
言葉を扱う仕事をしているのに、言葉にした途端、違うものになってしまう気持ちがある。
「離れたい」と言えば、愛していないことになる。
「愛している」と言えば、離れたい気持ちはないことになる。
「疲れた」と言えば、休めば戻れることになる。
実際の自分は、そのどれにも、きれいには収まっていない。
家に帰りたくないと思った数分後、息子が今日何をしていたのか知りたくなる。
夫の顔を見たくないと思いながら、彼が本当に苦しそうにしていれば、気になってしまう。
だから大丈夫なのだ、とも言えない。
本当は全部嫌なのだ、とも言えない。
世の中には、守るべきものについての言葉がたくさんある。
責任。愛情。家族。子どものため。
私も、それらを大切だと思っている。
だけど、夜中の洗面所で歯ブラシを握ったまま動けなくなったとき、それらの言葉をもう一度聞いても、立ち上がる力にならないことがある。
分かっている。
分かっていても、できない。
分かっているから、自分が嫌になる。
そんな人に、正しい順番で正しい話をすることが、いつも助けになるとは思えない。
もちろん、だからといって、苦しんでいれば何をしてもいいとは思わない。
自分を守るための選択で、誰かが傷つくこともある。
こちらに事情があるように、相手にも人生がある。
子どもには、まだ選べないことがたくさんある。
そのことを消して、自分だけを正しかったことにはできない。
でも、何かをする前に、自分の中にある気持ちを認める場所まで失いたくはない、とも思う。
離れたいと思った。
帰りたくなかった。
一人になれることが、嬉しかった。
その言葉を口にしただけで、話を終わらせられたくない。
どうして、そこまで来たのか。
何に疲れ、何を望み、何はまだ大切なのか。
責められない言い方に直す前の、まとまらない気持ちについて、もう少し話していたい。
私がここに書きたいのは、そういうことだ。
正しかった自分だけではなく、あとから思い出して、目をそらしたくなる自分のことも。
説明がつかず、誰かの期待する答えに、どうしてもたどり着けなかった夜のことも。
愛していることも、疲れたことも、うまく言葉にできない夜も。
正義も、悪も、正しいことが正しいと思えなくなるような夜も。
そういうときに、ここに来て、いろいろな意見に触れてほしい。
読んでくれたあなたに、「私も同じだ」と思ってほしい。
気持ちを深掘る場所として、あなたのそばにいられますように。