久しぶりに蒲田の駅へ降り立った。
街を見渡して、「あれ、こんなに綺麗だったっけ」と小さく呟く。
記憶の中の景色と微妙に噛み合わないのは当然で、私がここに住んでいたのはもう9年も前のことだ。
女性の一人暮らしにはディープすぎると言われがちな街だが、私は蒲田が好きだった。
京急に乗れば横浜にも三崎口にも行けるし、新橋や銀座へのアクセスも抜群にいい。何より、昼は銭湯、夜の飲み屋街の喧騒には、妙な安心感があった。
当時の私は社会人2年目。不器用だったわけじゃない。
ただ、自分の性格に全く合わない会社に入ってしまった自覚ははっきりとあった。
尖っていた牙を削って丸くし、周囲に同調することにようやく慣れてきた頃、どうしようもない理不尽にぶつかった。新橋から乗った京急の車内、声を押し殺しても涙が止まらなくなって、泣きながら帰ってきた夜がある。
いつかは会社員を辞めるだろうと漠然と思ってはいた。
けれど9年が経ち、会社員を辞めて経営者になる道を選び、こうしてyuzukaと2人で会社を切り盛りしながら蒲田に仕事で来ているなんて、あの頃の私は夢にも思っていなかった。
この日のスケジュールは、まずレンタルルームでYouTubeの動画を撮影し、そのあと取材先へ向かうという流れだった。
蒲田に行くなら絶対に「らーめん潤」に行こうと決めていた。yuzukaの知り合いが激推ししていたからだ。いざ撮影を終えてレンタルルームを出てみたら、なんとその店の目の前だった。たまたま適当に選んだのに、あまりの偶然にちょっとした運命を感じてしまう。
これから大事な取材がある。行っていいものだろうか。
さすがに相手に失礼になってはいけないと、2人でコンビニへ駆け込んでブレスケアを買い込んだ。
取材が終わってから食べればいいのに、どうしても目の前の欲望に勝てない。
そういうところが、いかにも私たちらしい。
ドアを開け、岩のりらーめんを注文し、運ばれてきた丼を見て息を呑む。
水面を埋め尽くす真っ白な背脂と、そこにどっさりと盛られた岩のり。
れんげを入れると、ガツンと力強い煮干しの醤油と、見た目ほど重くない背脂の甘みが一気に広がる。
スープを吸った岩のりの磯の香りと、シャキシャキとした刻みタマネギを極太の縮れ麺に絡めながら、無心で胃袋に流し込んでいく。スープの熱と旨みをしっかりと閉じ込める、たっぷりの背脂。
泣きながら耐えていたあの頃の悔しさも、すべて今の自分の糧としてまるごと胃袋に飲み込んでいくような感覚だった。
牙を無理やり引っ込めて耐えていたあの日の選択も、全部ちゃんと今の場所に繋がっていたのだと思えた。
店を出ると、いつの間にか雨はすっかり上がっていた。
念入りにブレスケアを口へ放り込み、満たされた胃袋を抱えて、私たちは蒲田からタクシーに乗り込み、取材先へと向かった。
すべての仕事が終わったあと、蒲田の名物である羽根付き餃子を食べる余裕なんて、当然のように私たちの胃袋には残っていなかった。
「取材が終わったら餃子行こうって言ってたのに、結局行けなかったね」
そう言って笑うyuzukaに、また今度だねと笑い返す。
身体にはまだ、あの一杯の濃厚な余韻がしっかりと残っていた。
あの部屋を引き払った日、もう二度と来ることもないだろうと思っていたこの街に、こうしてまた戻ってくることができたのだ。
だから、またこの街に来る口実が残ったのも、きっと悪くない。
らーめん潤蒲田店
東京都大田区蒲田5-20-7
